日本 3日間の滞在記:鎌倉 ー お寺、竹林、そして世界で最も端正な庭園

やあ、みなさん!

数日前からキーボードを打とうと思っていたが、最近のブログでお話ししたように非常に忙しかった。ようやく、日本滞在終盤、待ちに待った一息できる時間になった。一日中観光をして、そして夕方はこの記事を書くための自由な時間ができた…

前のブログでも書いたように、私たちは東京の南に位置する鎌倉へと向かった。まずは、旅程にある通り、その日の夕食をとるホテルに立ち寄る必要があった。(それはそれは、素晴らしい食事でした、それについては後で詳しく…) 残念ながら、ホテルは伝統的な旅館ではなかったが、とても素敵なホテルだった。これが、歩いて散策する今回の旅行のスタートとなった。

まずは、仏教の報国寺:–

私はこれまで完璧に造られた日本庭園を数多く見てきたので、自分はすでに見慣れていると思っていた。しかしまあ、長い間見ていないと、その完璧な構図、目を見張るほど美しく仕上げられた日本庭園に感動し、まるで初めて見るような喜びを感じ、ソニーで写真を撮る:

隣には竹林。これまた驚かされた。しかし、このようなユニークな林は、日本人が何十年もかけて手入れをし、育てたものであり、決して自然にできたものではないと思った。

整然と並んだ竹、整然とした道、整然とした道の縁取り、竹の下の地面には整然とした草や葉もある。ああ、日本はなんて素晴らしいんだ!

視線の先、目に入るものはすべて整然としている。整った砂利が敷かれた庭園を歩くのは楽しい。たとえ天気が悪くても(私たちが行ったときはそうだった)、雨が降っていても、この特別な喜びを失うことはないのだ…。

小道の砂利すらきれいに整頓されており、明らかにかき集めたものであることがわかる!>

しかし、最大の魅力は竹林の庭園。

一見バラバラに見える竹が、すべて同じ根っこから生えていることを教えてもらった。

お茶とコーヒーで、一休み…

なんて素晴らしい場所でしょう!

最も残念だったのは、雨…ではなく、桜が咲いていなかったこと。あと1週間もすれば、あの小さなつぼみが満開になるのに。仕方がない。何ヶ月も前に決めた商談やイベント、公の場でのスケジュールを桜の開花に合わせて変更…というのはできませんよね?

私たちが行ったときは、桜はこんな感じでした:

そして、1~2週間後には、こんな感じになっているでしょう:

実は上の写真は、なぜか一本だけ早く花が咲いた木を撮ったもの。もうすぐ全ての木がこのようになり、満開になることは間違いない。

日本には30回以上訪問したことがあるが、桜の季節に来たのは2回のみ。2011年(地震、津波、福島原発事故があった年)と2012年->

私たちは続いて鶴岡八幡宮に行った。いざ行ってみると、ちょっと歓迎が冷たかった!->

「冷たい」と言っているのは「橋」のこと。とても古く、観光客から守る必要がある橋だ。私たちは別の道から境内に入った。中央の広い舗装された道は、神のみが通るもので(もちろんそうだ)、普通の人は両側の砂利を歩くようにと言われた。でもそれならなぜ、みんな真ん中の道を歩いているんだろう :%)

一方、雨脚は強まるばかり…

早咲きのサクラを発見!->

お寺までもうすぐだ…

そして、ここにあるのは何だ?日本酒の広告インスタレーション!大きな樽酒がずらりと並んでいる!空っぽの樽は見せるため、満タンの樽は飲むためなのか、わかりませんでした。そして、地元のコーヒー、ココア、そして他の何か…

お寺では、結婚式も行われていた。よく見ると花嫁は、頭に綿帽子をかぶっている。これは「嫉妬の角」を隠すためだと教えてもらった。いや、本当に!日本、ベイビー!

結婚式の前を通り過ぎ…

長谷寺-観光客にとって、もう一つの必見のお寺だ:

そのメインホールがこちら(そしてしつこく降る雨:)->

ガイドは献身的で尊敬できるベテランの方だった。

日本の庭園の数々。雨でも美しい!->

そして突然…

ここは写真だけ。このお地蔵様にまつわるストーリーは、ちょっと悲しすぎる…

(中国の兵馬俑を連想させる。)

雨脚が強くなる中、いよいよ本命の長谷寺に近づいていく…。

このお寺の中は写真撮影が許可されていた…

お土産…

郊外感のある街並みを見渡せるバルコニー:

この建築物に入ったのは、見学したり歴史を学ぶためというより、しばらく雨宿りするためだ->

竹林:

古代(東洋)の卍(まんじ)があった。コインを投げ入れて願い事をするときに最適な聖なるシンボル…

「お越しいただきありがとうございました!」 「こちらこそ、どういたしまして、ありがとうございます!」”

またもや早咲きです:

このハッピーな大黒天は触ることができるが、具体的な方法が書かれていた;

  • 頭を撫でると… 賢くなります;
  • 打ち出の小槌を撫でると… お金持ちになります;
  • お腹を撫でると… 太ります!

日本、ベイビー!

さらに整えられた完璧な庭:

旅を共にする仲間の一人、GGがモザイクの中にハートを見つけた!->

これは…洞窟への入り口! ->

咲いている花はない→

続いては ー 高徳院の境内にある大仏様:

観光客のための情報:

仏像の背中には-窓と扉!->

仏像の中へ…

これは、大仏に贈られたわら草履である。誰のものかはわからない。地元の数学者は、いつか大仏が目覚めたとき、この大きな草履を履いた足で東京まで歩いたら、1時間しかかからないと計算しているらしい。

そして、そんな軽いノリで、今日の散策は終了。楽しんでいただけましたか?

PS:もう一人の旅仲間、MLが撮ったスナップ:

日本で撮影した他の写真はこちら

 

 

 

 

 

 

 

日本 3日間の滞在記:東京 ー 山ほどの仕事、そして鎌倉

ソウルから東京までは、わずか2時間のフライト。韓国の上空は曇り空で、窓の外を見たり写真を撮ったりする価値はあまりない。しかしそのおかげで、忙しいスケジュールの出張では、いつもおろそかになってしまう事務作業のキャッチアップ(主にメールのチェック)に集中することができたので本当によかった。機内では、ほとんど邪魔されることなく過ごすことができた(客室乗務員が「もう一杯どうですか」と繰り返し聞いてきたのを除けば、だが)。フライトの終わりに近づき、初めて窓の外を見たとき、雲が晴れて日本がはっきりと下に見えていることに気づいた。

雪に覆われた峰々と西側の海岸。

不思議なことに、日本人は谷間の平地に住むことが多く、スイスのように山間部に定住することはほとんどない。なぜだろう?きっと日本独特の伝承があるのだろう。どなたかご存じないですか?コメント欄で教えてください!

しかも、山の上には雪がうっすらと積もっている程度ではなかったのです。その時私はふと考えました。日本人は山に家を建てないのと同じように、山でスキーをしないのだろうか?いや、実際そうではありません。)

あ~これは私が好きな火山!->

よく見ると、古いカルデラ、新しい円錐、噴火の際に溶岩が流れた場所などもよく見えます。

東京に近づくと、窓から見えるのは唯一無二の富士山。カムチャッカの完全円錐火山に匹敵する美しさだ!

富士山を見て、私はこの山に2度登ったことを思い出しました。1回目は2009年のことだ。その時の写真はほとんど残っていません(実は3枚だけ)。いや、ただ残っていた動画を発掘しました!

2回目は2014年5月で、それについては長いブログ記事を書きました。この記事の最後にも短い動画があるので、ぜひご覧ください(YouTubeにもあります)。

そして3回目は?いつかまた登ることを願っています。昔からある富士山にまつわる格言を否定するためにも。

「富士に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」

一方、飛行機は成田国際空港へと下降し始めました…

突然、ひょっこり、産業地帯の風景が。あれは、福島か?いや、福島は北に60kmほど離れたところにあることがわかった。

よく見ると、この辺りの工業化は、整然とした直線的な美しさがあるんです!->

首都に降り立ってから、タイムスリップ(逆戻り):全員フェイスマスク着用、予防接種記録カードの提示、QRコードで登録、そして着陸から最初の目的地までの間にサーモグラフィで顔を確認されることが3回ありました。日本ではコロナウィルス蔓延による制限はまだまだあり、警戒しているようですね。

日本では2日間のビジネスが予定されていた。どちらの日もテンプレート通り、忙しく、必要不可欠で、心地よく、楽しいものだった。現地チームとの夕食、パートナーや顧客、業界関係者とのミーティングなどだ。3日目もありましたが、その日はマイクロツーリズムのために確保していました。鎌倉に行くために…

鎌倉は、1192年に鎌倉幕府がひらかれて以来、幾度も歴史的な出来事の舞台となった町の一つで、国内でも人気の観光地です。地元の人たちが評価するのなら、私たちも行ってみようと思った。というわけで、さっそく出かけてきました。

今のところ、写真だけです。これを書いている今は疲れ切っていて、キーボードに指先を当てて何かまとまった文章を打つ気力もありません(明日は朝早く起きて空港に戻るので、早く寝なければなりません)。文章は、また後で書く気になったときに。今は、写真で(感情なし)…

日本で撮った他の写真はこちらです。

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産業用分野のセキュリティにおけるパラダイムシフト:工場に免疫を

サイバーセキュリティの世界で10年といえば長い年月だ。もし10年前に未来が見通せてサイバーセキュリティ技術が2022年までにどこまで進むかを見ることができたなら、きっと誰も信じようとしなかったに違いない。私だって信じなかっただろう!パラダイムも、原理も、慣習も、製品も(「アンチウイルス?何それ?」という時代もあった)、何もかもが見違えるように変化し進歩している。

同時に、どれほど進歩しようとも、また、人工知能奇跡をうたう口ばかりの約束やサイバーセキュリティ風の大げさな宣伝文句が飛び交うのをよそに、今日の我々は依然として、10年前と変わらない問題に直面している。

いかにしてビジネスプロセスの継続性を保持しながらデータを悪意ある目や無許可の変更から守るか?

実際に、機密性、信頼性、アクセス可能性を保護することは、ほぼすべてのサイバーセキュリティ担当者にとって、今もなお日々取り組まねばならない厄介な仕事となっている。

どこへ行こうとも、「デジタル」には常に同じ問題がつきまとう。過去にもそうだったし、現在もそうだし、今後もそれが続くだろう。続くのも当然だ。デジタル化の利点はこれほど明らかなのだから。重機製造、石油精製、運輸、エネルギーといった保守的に見える分野でさえ、すでに何年も前からデジタル化が進んでいる。結構なことだが、さて、その全部が安全な状態なのだろうか?

デジタル化すれば、ビジネスの効率性は飛躍的に上がる。だが他方で、デジタルなものはすべてハッキングされる可能性がある(実際にされる)し、現に数多くがある。全面的にデジタル化を受け入れ、そのメリットを存分に享受するという考えは非常に魅力的だ。ただし、苦痛を伴わない形で(つまり、ビジネスプロセスが中断されないように)進める必要がある。そこで、我々の(いくらか)新しい鎮痛剤、もとい「KISG 100Kaspersky IoT Secure Gateway)」の出番だ。

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MWC @バルセロナ:ショーは続く

皆さん、こんにちは!

今年のMobile World Congress(MWC)がバルセロナで開催された。私自身、現地で参加した。

そして、ステージ上で講演を行った。

そして、国際的メディアの取材を大量に受けた。

何人かの私の「ファン」がサイン自撮りを求めてきた。

昨年、MWCはキャンセルとなった。世界最大のモバイル関連イベントが、開催されなかったのだ。

そして今年、2020年の余韻がありながらも(一部の国境は今も閉ざされ、多くの制約がいまだに課され、移動には困難が伴い、多くの企業は保守的な行動を取っている)、ショーは続いた。続けなければならない。

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身代金:支払うべきか支払わざるべきか?それが問題だ

ランサムウェアの攻撃に遭遇した場合の対応についての記事を読んでいると、時折こんな言葉に遭遇することがある。「(身代金の)支払いを検討しましょう」。そんなとき、私は深く息をついてそっとブラウザーのタブを閉じる。なぜかと言えば、このような恐喝者に金銭を支払うべきではないからだ。支払うことで犯罪活動を支援することになるだけではない。ほかにも理由がある。一つ一つ説明させていただきたい。

1. マルウェア開発を支援することになる

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Threat Intelligence Portal、シーズン2

1年前、私はサイバーセキュリティのエキスパート向けに、当社の開発した新しいツールについてお知らせした。この、誰でも利用可能なThreat Intelligence Portalでは、GReATのエキスパートたちが複雑な脅威(または単に不審なファイル)の解析に使用するのと同じ機能を利用できる。今やThreat Intelligence Portalでは、毎月膨大な数のファイルがチェックされている。

しかし、状況は昨年から大きく変化した。新型コロナウイルスのためにまさに世界全体がリモートワークを余儀なくされ、その只中で、サイバーセキュリティエキスパートの仕事はいっそう厳しいものとなった。企業ネットワークのセキュリティを維持することは、いまや以前の何百倍も大変な仕事だ。COVID-19の流行前から貴重なものであった「時間」は、現在、さらに重い価値を持つ。技術力や知識の高い利用者の皆々さまからは、シンプルかつ直接的な要望が寄せられるようになった。APIの提供と、上限の引き上げだ。

ご要望に、我々はお応えした。

Threat Intelligence Portalの新しいインターフェイス

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サイバーセキュリティ:自動車品質の新側面

21世紀の自動車も機械的装置であると、かなりの人が考えているようだ。確かに、自動車にはさまざまな用途の電子機器が多少なりとも取り入れられているが、結局は機械工学が作り上げたものだ。シャーシ、エンジン、車輪、ハンドル、ペダル、…すべて機械だ。電子機器は(「コンピューター」を含め)、機械部分の機能を補助しているだけだ。実際、最近のダッシュボードはほとんどがデジタル表示になっている。

率直に言おう。そんなことはない。

現代の自動車は、基本的に特殊なコンピューターだ。我々が「自動車」という言葉から連想する昔ながらの機械装置や電気装置—エンジン、ブレーキ、方向指示器、ワイパー、エアコンなど—を制御する、「サイバー脳」なのだ。

たとえば、以前はハンドブレーキといえば例外なく機械式だった。手で握って引くと、きしむような音を立てる。それが今はボタンを押すだけになっている。機械要素はゼロ。100%コンピューター制御だ。ほとんどのものがそうなってきた。

さて、自動運転車といえば、コンピューターが車を操縦するものだと考える人が多い。では、最新型の自動車でハンドルを握っているのが人間なら、(コンピューターではなく)人間が運転していることになるのだろうか?

もう一度言おう。そんなことはない。

最新型の自動車になると、車が自律的に走ることと人間が運転することの違いは、後者では車載コンピューターを人間が操作し、前者では車載コンピューターを非常に高性能なメインコンピューターが制御する、というだけのことだ。そのメインコンピューターを開発するのはGoogleYandexBaiduCognitive Technologiesといった企業だ。このコンピューターは、目的地を与えられると、ナノ秒単位で更新される超スマートなアルゴリズムに基づいて、周囲の状況をくまなく確認し、目的地までどのように移動するか(時速、経路など)を判断する。

自動車のデジタル化に関する小史

では、機械からデジタルへの動きは、いつ始まったのだろうか?

一部の専門家は、自動車産業のコンピューター化は1955年に始まったと考えている。Chryslerが、ある車種にオプションとしてトランジスターラジオを搭載し始めた年だ。その一方で、ラジオは厳密にいうと自動車の機能ではないので、電子制御式点火装置(Pontiac、1963年)、アンチロックブレーキシステム(Chrysler、1971年)、電子エンジン制御システム(GM、1979年)をもって自動車のコンピューター化の嚆矢とする考え方もある

始まった時期にかかわらず、それ以降がおおむね同じように進んだことは間違いない。電子化が進み、続いてデジタル化が始まった。その境界線はあいまいだが、私が考えるに、自動車技術においてデジタル革命が始まったのは1986年2月、SAE Internationalの会議でRobert Bosch GmbHが自動車の電子部品間での通信に用いるデジタルネットワークプロトコル「CAN(Controller Area Network)」を発表したときのことだ。彼らには当然の尊敬が与えられるべきだ。こんにちもなおCANプロトコルは十分に機能しており、実質的に世界中のあらゆる車に使われている。

CAN以降の自動車とデジタルに関する、詳しすぎるまとめ

BoschからはさまざまなタイプのCAN(低速、高速、FD-CAN)がリリースされたが、現在ではそのほかにFlexRay(トランスミッション)、LIN(低速バス)、光ファイバーのMOST(マルチメディア)、そしてついに車載Ethernet(現在は100mbps、将来的には最大1gbps)といった技術も登場している。今どきは自動車を設計する際に、さまざまなプロトコルが採用される。ドライブバイワイヤー(機械的な接続に代わる電気システム)は、電子ガスペダル電子ブレーキペダル(1998年以降トヨタ、Ford、GMがハイブリッド車と電気自動車に採用)、電動パーキングブレーキ電子トランスミッション電動ステアリング(2014年のInfinity Q50初めて採用)をもたらした。

BMWのバスとインターフェイスBMWのバスとインターフェイス

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YARAルール:ブラックスワンを予測する

人類がこのような年を過ごすのは実に久しぶりだ。さまざまな姿形の「ブラックスワン」をこれほど集中して目撃した年は、今までになかったと思う。私が言うのは羽毛に覆われた生き物のことではない。ナシム・ニコラス・タレブ(Nassim Nicholas Taleb)氏が2007年に出版された自著『ブラック・スワン:不確実性とリスクの本質』の中で示した理論にある、広範囲にわたる影響を伴う予期できぬ出来事について話している。この理論の主な教義の一つは、こうだ。「すでに発生した驚くべき出来事は、後から考えれば、明白で予測可能なものに見える。しかし、実際に起きる前には誰も予測していなかった」

サイバーセキュリティのエキスパートたちは、この不明瞭さに対処しブラックスワンを予測する方法を持っている

例を挙げる。例の不気味なウイルスは、3月以来、世界を封鎖している。「コロナウイルス科」系統のウイルスは実に多数(何十種類も)あり、定期的に新種が見つかっていることが判明した。猫、犬、鳥、コウモリが感染する。ヒトが感染する。一部のものは、よくある風邪の原因となる。その他は…違う兆候を示す。そこで我々は、もっと致命的なウイルス(天然痘、ポリオなど)の場合と同じように、ワクチンを開発しなければならない。だが、ワクチン接種が大いに功を奏するとはかぎらない。インフルエンザを見よーー決定的な予防接種がないまま、何世紀が経過しただろうか?それに、ワクチン開発を開始するには、自分の求めるものを知らねばならないし、これは科学というよりも人文学に近いものに見える。

なぜこのような話をしているのか?一体何と関連が…まあ、いつものようにサイバーセキュリティか異国への旅の話に行き着くわけだが、今回は前者だ。

現存する最も危険なサイバー脅威の一つは、ゼロデイ脆弱性だ。レアで、(サイバーセキュリティ関係者その他に)知られていない、本気でヤバくて大規模な恐ろしい事態と損害をもたらしかねない、ソフトウェアに内在する脆弱性だ。それでいて、実際に悪用される瞬間(またはその少し後)までその存在は気付かれない傾向にある。

しかし、サイバーセキュリティのエキスパートたちは、この不明瞭さに対処しブラックスワンを予測する方法を持っている。この記事では、そういった手段の一つであるYARAについて触れたい。

簡単に言うと、YARAはマルウェアの調査および検知を助ける存在だ。一定の条件を満たすファイルを特定し、テキストやバイナリのパターンに基づいてマルウェアファミリーを絞り込む、ルールベースのアプローチだ。目指すところは、パターンを特定することで似たようなマルウェアを探し出し、「この悪意あるプログラムは、似たような目的を持つ同じ人々によって作られたものらしい」と言えるようにすることにある。

OK、では別のメタファーに移ろう。ブラックスワンと同様に水関連のメタファー、海だ。

あなたのネットワークが、何千種もの魚が泳ぐ大海であるとしよう。あなたは漁業界の人間で、海上の船から巨大な網を投じて魚を捕らえている。しかし、あなたが欲しいのは特定の種類の魚(すなわち、特定のハッカー集団によって作られたマルウェア)だけだ。さて、この網は特殊な作りになっている。網には特別な一角があり、特定の種類の魚(特定の性質を持つマルウェア)しかその部分に入らないようになっているのだ。

漁が終わるころには大量の魚が捕れている。比較的新しいものもあれば、これまで見たことのない、ほとんど知らない魚(新種マルウェアの検体)もある。しかし、これらが例の一角に入っていたなら、「X(ハッカーグループ名)らしい」「Y(ハッカーグループ名)に見える」と言うことができる。

この魚/漁業のメタファーを裏付ける事例がある。2015年、我らがYARAマスターでありGReATのリーダーであるコスティン・ライウが、サイバー空間のシャーロック・ホームズと化してMicrosoft Silverlightのエクスプロイトを見つけ出した。詳しくはぜひ記事を確認していただきたいが、かいつまんで説明すると、彼がやったことというのは、ハッカーがリークしたメールのやりとりを子細に調査し、ほとんど何もないところからYARAルールを構築することだった。これが例のエクスプロイトの発見につながり、メガ級のトラブルから世界を守った。(メールはHacking Teamというイタリア企業からリークしたものだったーーハッカーがハッカーをハッキングしたのだった)

では、YARAルールについてだ。

我々は何年にもわたり、YARAルール作成技法のトレーニングを行ってきた。YARAが解明を助けるサイバー脅威は、かなり複雑なものだ。そのため、講座は対面で(つまりオフラインで)、しかも限られた人数のトップレベルのサイバーセキュリティリサーチャーに限定されていた。当然ながら3月以降は、オフラインでのトレーニングが難しくなった。しかし、教育の必要性は変わらない。実際、当社開催の講座に対する興味が薄れる様子はなかった。

それも当然だ。サイバー空間の悪者たちは、これまで以上に高度な攻撃を考え出し続けている。ロックダウン期間中は、特にそうだった。したがって、YARAに関する我々の専門的ノウハウをロックダウン中に他に伝えないでいるのは、明らかに誤りだ。したがって、我々は(1)トレーニング形式をオフラインからオンラインに移し、(2)誰でも参加できるようにした。無料ではないが、このレベル(非常に高い)の講座にしてはマーケットレベルの競争力がある価格だ。

こちらがトレーニングの詳細だ

Hunt APTs with YARA like a GReAT ninja

 

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サイバーの あの日あの時 パート8:1998年~2000年(3つの初めて:構造改革、海外オフィス、パートナー会議)

会社の創立から数年間は、とりわけ厳しかった。まさに身を粉にして働かなければならなかった。それはまさに、雄飛の時のための雌伏の時期だった。1997年にKL(訳注:Kaspersky Lab)が本登記された後、我々はほとんど何もない状態で多くを成し遂げた。資金もリソースもないに等しかったが、サイバーセキュリティのコンベヤーは待ったなしで流れていく。新しい技術が必要とされ、市場は新製品を待ち望んでいた。そんなわけで我々は骨身を削ってこつこつと、週末もほとんど休むことなく働き、休暇などめったに取れなかった。どんなことに取り組んでいたのか?例を紹介しよう…

1998年6月: Chernobyl(CIH)ウイルスの世界的流行。我々以外のアンチウイルス企業は、このウイルスに気付いていなかったか、特に気に留めていなかったか、休暇中だった。このウイルスを検知するだけでなく、感染したシステムを「治癒」する製品を持っていたのは、我々くらいのものだった。インターネット(ロシア語以外にも対応したネットワーク!)上には、我が社のサイトへのリンクがいくつも存在していた。新たな脅威にいち早く対応したこと、さらに、追加の対処手順を備えた「クイックアップデート」をただちにリリース可能であったことが、このような形で報われたのだった。このウイルスは巧妙に自分自身をWindowsメモリー内にインストールし、ファイルアクセス呼び出しをフックして、実行可能ファイルに感染するものだったが、こうした動作に対応するにはカスタム設計の解析プロセスが必要であり、柔軟なアップデート機能なくしてはこのようなプロセスを配信することはできなかった。

実に厳しい日々だった。だが、結果は出ていたし、成長もしていた。そして2か月後、まったく思いもよらない(運命的な?!)救いの手が差し伸べられた…

1998年8月:ロシア財政危機 featuringルーブル下落、さらにロシアの債務不履行。全体的にほとんどのロシア人にとって不幸な出来事だったが、我が社にとっては、とんでもない幸運だった。国外のパートナーが皆、外貨建てで前払いしてくれたのだ。我々は輸出する側だった。運用通貨は大幅に下落したルーブルで、収入はドル、ポンド、円など。おかげで、懐に余裕ができた!

だが、財政危機の真っただ中で「運よく」手にした栄光に、我々は満足しなかった。この時期を利用して、我が社は熟練の(高給の!)管理職を新たに採用した。ほどなくして商務、技術、財務担当のディレクターが揃った。その少しばかり後には、中間管理職の雇用も開始した。これは我が社初の「構造改革」だった。これを機に「チーム」は「会社」になり、和気あいあいとした関係は形式ばった組織らしい構造、上下関係、責任体制に取って代わられた。構造改革は痛みを伴うものになったかもしれないが、ありがたいことにそうはならなかった。家族のようだった時代をことさら懐かしがることもなく、我々は順調に進んでいった。

// この種の再編・構造改革・「再構築」については、マイケル・ハマー(Michael Hammer)氏とジェイムズ・チャンピー(James Champy)氏による書籍『Reengineering the Corporation』(日本語版:リエンジニアリング革命―企業を根本から変える業務革新)を強くお勧めする。実に良い本だ。このほか役立つ書籍についてはこちらにまとめてある。

1999年には、最初の海外オフィスを英国ケンブリッジに開設した。外国企業にとって英国市場ほど参入が難しい市場はそうないだろうに、なぜ、あえて英国を選んだのか?実際のところ、単なる偶然だった(詳しくは後で説明する)。ともあれ、どこかで、何としてでも、初めてのことに踏み出す必要があった。多くの過ちや学びのあった英国での経験は、他の国々での事業展開の際に大いに役立った。

最初のプレスツアーはロンドンで開催された。折しもITセキュリティ会議(InfoSecurity Europe)のため、我々は英国の首都を訪れていたのだった。そのプレスツアーで、英国にオフィスを開設する意図があることを、我々は堂々と発表した。記者たちは当然な疑問を持った。英国内には、すでにSophos、Symantec、McAfeeなどが定着しているのだ。そこで、我が社がいかに革新的であるかを述べ、独自の技術と製品について語り、それ故に先ほど名前が挙がったどの企業よりも優れているのだと主張した。この主張は、少なからずの驚きと関心をもって受け止められた(これ以降、ばかげた質問を受けることもなくなった!)。私にとって英語話者の聴衆に向けた初のスピーチも、やはりロンドンで、InfoSecurity Europeでのことだった…聴衆はたったの2名。後で分かったのだが、彼らは、我が社のことをよく知っているVirus Bulletinの記者だった!講演に空席があったのは、これが最初で最後だった(詳細はこちらをご覧いただきたい)。

我が社初のパートナー会議については、こんな経緯があった。

1998年から1999年にかけての冬のある時、我が社のOEMパートナーであるF-Secure(当時のData Fellows)のパートナー会議に招かれた。ここで我々はパートナー会議の全体的な様式を学び、それがいかに素晴らしいアイデアであるかを知った。皆が集い、技術や製品についてのあらゆる最新情報を共有し、パートナーが抱える懸念や問題に耳を傾け、新たなアイデアについて話し合う。ただ集まるだけではないのだ。それから1年もしないうちに(1999年)、我が社は自社のパートナー会議を開催し、欧州、米国、メキシコからパートナー15社ほどをモスクワに招いた。これは、赤の広場とクレムリンに隣接する革命広場で撮影した、そのときの集合写真だ。

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