貫井丞治
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都杉並区 |
生年月日 | 1924年 |
身長 体重 |
178 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1946年 |
初出場 | 1946年5月30日[1] |
最終出場 | 1946年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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貫井 丞治(ぬくい かんじ、1924年 - )は、東京都杉並区出身のプロ野球選手(捕手)。貫井 函治と表記される文献もある。
来歴・人物[編集]
京王商業学校(現・専修大学附属高等学校)在学中は、1941年に第27回全国中等学校優勝野球大会(日中戦争悪化により中止)東京府大会で準優勝[2](決勝で帝京商業学校〔現・帝京大学中学校高等学校〕に0-14で大敗)。翌1942年に戦時下の甲子園大会に出場した(初戦で、この大会優勝の徳島商に延長14回の激闘の末、1-2で惜敗)。京王商業時代のチームメイトに清水喜一郎がいる。京王商卒業後は、清水と共に明治大学でプレーした。
1946年、清水、大下弘と共に明治大学出身者を獲りたいチーム方針から、セネタースに入団した(余談だが、清水、大下の両名とも自殺という形で生涯を閉じている)。5月30日の中部日本戦(西宮球場)で初出場した[1]。しかし、正捕手の熊耳武彦の壁は厚く、僅か2試合の出場に留まり、同年シーズン終了後、僅か1年での現役生活を以って引退した。
プロでは殆ど活躍できなかったが、当時住む場所の無かった大下を、杉並区の貫井の実家に住まわせ、大下が大打者の下地を作るきっかけとなった選手でもある。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1946 | セネタース | 2 | 5 | 5 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 1 | -- | .600 | .600 | .600 | 1.200 |
通算:1年 | 2 | 5 | 5 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 1 | -- | .600 | .600 | .600 | 1.200 |
背番号[編集]
- 12 (1946年)
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 貫井函治 - NPB.jp 日本野球機構
- 貫井函治の通算成績
- 貫井丞治(MG&FightersのHP)