ベナン

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ベナン共和国
République du Bénin
ベナンの国旗 ベナンの国章
国旗 (国章)
国の標語:Fraternité, Justice, Travail
(フランス語: 仲間、正義、労働)
国歌L'Aube Nouvelle(フランス語)
新しい日の始まり
ベナンの位置
公用語 フランス語
首都 ポルトノボコトヌー
最大の都市 コトヌー
政府
大統領 パトリス・タロン
首相 (2016年4月6日に廃止)
面積
総計 112,620km299位
水面積率 1.8%
人口
総計(2020年 12,123,000[1]人(76位
人口密度 107.5[1]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2019年 8兆4322億4800万[2]CFAフラン
GDP(MER
合計(2019年69億[2]ドル(118位
1人あたり 1218.278(推計)[2]ドル
GDP(PPP
合計(2019年130億[2]ドル(135位
1人あたり 3422.429(推計)[2]ドル
独立
 - 日付
フランスより
1960年8月1日
通貨 CFAフランXOF
時間帯 UTC(+1) (DST:なし)
ISO 3166-1 BJ / BEN
ccTLD .bj
国際電話番号 229
註1 : 憲法上の首都はポルトノボだが、政府所在地はコトヌー。

ベナン共和国(ベナンきょうわこく、フランス語: République du Bénin)、通称ベナンは、西アフリカに位置する共和制国家。南北に長く、西にトーゴ、北西にブルキナファソ、北東にニジェール、東にナイジェリアと陸上国境を接し、南は大西洋ギニア湾に面する。

首都ポルトノボだが、実質的な政府機能はコトヌーに置かれている[3]

国名[ソースを編集]

独立前はフランスの植民地[4]、正式国名フランス語で、République du Bénin(レピュブリク・デュ・ベナン)。これに因む通称はBénin

公式の英語表記は、Republic of Benin[3](リパブリック・オブ・ベニン)。これに因む通称はBeninベニン)。

日本語の表記は、ベナン共和国[3]。通称、ベナン。かつては英語発音またはローマ字読みから、ベニンとも表記された。しかし、現在では現地の発音により近いベナンという表記が浸透し、それを受けて例えば日本新聞協会がカナ表記のガイドラインを「ベニン」から「ベナン」に変更するといった動きがあり、このためこの傾向はさらに促進されている。これには、ナイジェリアのベニン王国(Benin)やベニン市と区別するという意識もあると思われる。

1960年フランスからの独立当初はダホメ共和国だった。ダホメは国土南部の限られた地域を指す名称であり、北西部のアタコラ県や、北東部のボルグ県を含めるには不適切だったので、ダホメが面していたベニン湾に因み国名を決め、1975年ベナン人民共和国が成立した。その後、1990年社会主義政策放棄と共に現在の国名となる。ちなみにベナンの公用語であるフランス語ではhは発音されないため、ダホメ(Dahomey)はダオメに近い発声となる。

歴史[ソースを編集]

1729年の西アフリカの地図。トーゴとともに「奴隷海岸」と呼ばれた。
ダホメ王国の国旗(1889年)
ダホメ共和国の国章(1958年-1964年)
現在使われていない歴史的な旗?ベナン人民共和国の国旗(1975年-1990年)
ベナン人民共和国の国章(1975年-1990年)

植民地化以前[ソースを編集]

17世紀頃には、現在のベナンの海岸部にはウィダーやポルトノボ王国などいくつかの都市国家が栄えていた。それより内陸のフォン人の居住地区であったアボメー周辺にはダホメ王国が成立していた。ダホメ王国は18世紀に入ると海岸部のウィダーを占領して、ウィダーにあるポルトガルサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダなどのヨーロッパ人商人を主な相手として奴隷貿易を行い、これを主な収入源にして銃火器を輸入した。1730年に現ナイジェリアのオヨ王国によって服属させられたものの、その後も18世紀を通して周辺の国を軍事的に攻撃して繁栄した。ダホメ出身のフォン人の奴隷は、アメリカ大陸のフランス領サン=ドマング黒人奴隷共同体の中で文化的なヘゲモニーを握り、フォン系のトゥーサン・ルーヴェルチュールハイチ革命を担うなどの出来事があった。

19世紀に入ってヨーロッパ諸国によるアフリカの本格的な植民地化が進むと奴隷貿易が徐々に廃止され始めたため、ダホメ王国の財政基盤に影響が及んだ。1818年にダホメ国王に即位したゲゾ王はオヨから独立しダホメの最盛期を現出するが、彼は奴隷貿易を推進する一方でこの新しい動きにも対応し、パームオイルの原料となるアブラヤシの大量生産を行い、これをフランスなど欧米諸国に輸出した[5]ことで勢力を維持した。しかしアフリカ分割の中でフランスの進出が進み、1882年にフランスが海岸部を保護領化するとフランス・ダホメ間の対立が激化し、1890年に開戦した第1次フランス=ダホメ戦争英語版及び第2次フランス=ダホメ戦争英語版によって、最終的には1894年にフランスに征服された[6]

フランス領ダホメ[ソースを編集]

ダホメ敗北後、フランスはさらに北部へと進出していき、1904年、この一帯はフランス領西アフリカの一部であるフランス領ダホメ1904年-1958年)となった。第二次世界大戦後、フランスは徐々にダホメの政治参加を拡大していった。1946年には本国議会への代表選出と自治議会設立を認め、1958年にはフランス共同体内の自治共和国となった[7]

ダホメ共和国[ソースを編集]

1960年に自治共和国からダホメ共和国1958年-1975年)として、初代大統領ユベール・マガのもとで完全独立した。しかし、北部のバリバ人英語版を基盤とするマガ、南部のヨルバ人を基盤とするスル・ミガン・アピティ、同じく南部のフォン人を基盤とするジャスティン・アホマデグベの三者による激しい政争が続いて政情は混乱し、1963年にはクリストファ・ソグロクーデターを起こして政権を奪取。この時はソグロはすぐに民政移管を行ったものの、以後も三者の政争はやまず、その混乱をついたクーデターも頻発した。結局この混乱は、1972年の建国後5度目の政変でマチュー・ケレク政権が成立したことで安定へと向かった。

ベナン人民共和国[ソースを編集]

ケレク政権は1975年11月に国名をベナン人民共和国に改称し、内政的にはベナン人民革命党英語版(PRPB)の一党制に基づく社会主義路線を標榜、外交的には中華人民共和国に近づいた。

ベナン共和国[ソースを編集]

しかし、ケレク政権は経済運営に失敗し、民主化運動の高まりの中で1990年2月には国内各勢力の代表者を招集して「国民会議」が開催された。会議ではカトリック司教のイシドール・ドゥ・スーザ議長の下で民主化移行政府の設立が決定され、ケレクの職権が大幅に制限されるとともに、暫定政府首相にはニセフォール・ソグロが選出された。この結果民主化が急速に進み、3月には国号をベナン共和国に改称し、12月には複数政党制三権分立大統領制を骨子とする新憲法が国民投票で制定された[8]。翌年の大統領選挙ではケレク政権は敗北して退陣、変わってソグロが大統領に選ばれ、議会もソグロ派が多数を占めた。ソグロ政権は経済成長を実現したものの政権運営は不安定なものであり、1996年の大統領選挙ではケレクが大統領に復帰した。2001年の選挙でもケレクは再選されたが、3選禁止規定を順守して次の大統領選には出馬せず、2006年3月の選挙ではヤイ・ボニが当選し大統領となった[9]。2016年の選挙では、パトリス・タロンが大統領に選出された[3]

政治[ソースを編集]

大統領元首とする共和制を国家体制としており、大統領は行政権を担い、民主的な選挙によって選出される。大統領の任期は1期5年であり、3選は禁止されているほか、70歳以上の大統領選立候補は認められていない[10]。ベナンは複数政党制が認められており、立法権はベナン政府と国民議会が担い、司法権は行政と立法から独立している。現行憲法は1990年憲法である。

1990年に社会主義体制から市場経済体制に移行した後、情勢は安定している。ベナンは1990年の民主化以は民主主義を堅持している[5]

国際関係[ソースを編集]

旧宗主国フランスとは、社会主義政権時の1977年に起きたクーデター未遂で短期間関係が悪化したほかは、常に良好な関係を維持している[11]フランス大統領エマニュエル・マクロンは2021年10月27日、1892年のベナン侵略時に持ち去った玉座や王宮の扉、彫像など26点の返還を表明した[4]

しかしベナンに最も大きな影響を及ぼすのは東隣の大国ナイジェリアであり、同国の通商政策はベナン経済に直接大きな影響を与えている[12]。1983年にはナイジェリアが国境封鎖と禁輸を行ったためにベナン経済は大きな打撃を受け[13]、2019年にも国境封鎖と禁輸によって同様に打撃を受けた[14]。ニジェールとは貿易ルートを通じて経済的に結びつきが深いが、かつてニジェール川の中州であるレテ島英語版をめぐって対立しており、2001年には国際司法裁判所(ICJ)への提訴が行われ、2005年にはレテ島のニジェール帰属と国境線未画定地域におけるベナン側寄り裁定を組み合わせた判決が行われた[15]

日本との関係[ソースを編集]

  • 在留日本人数 - 30人(2020年10月時点)[3]
  • 在日ベナン人数 - 110人(2020年12月時点)[3]

駐日ベナン共和国大使館[ソースを編集]

駐ベナン共和国日本大使館[ソースを編集]

軍事[ソースを編集]

ベナン軍は陸軍海軍空軍の三軍と国家憲兵隊により構成される。徴兵制が敷かれており、18歳以上の国民には兵役の義務が課せられている。

地理[ソースを編集]

北西部のアタコラ県の風景

南はギニア湾に面しており、海岸線に沿って広く砂州ラグーンが発達する。砂州が続くため良港には恵まれていないが、コトヌーには港が築かれ交易・経済の中心となっている。人口は南部に集中しており、コトヌーのほかにも首都ポルトノボなどの都市が存在する。海岸から北に向かうにつれて標高は徐々に上がっていくが、全体的に国土は平原か緩やかな丘陵からなっており、国土中央部付近でも標高はそれほど高くならない。中央部には分水界が走っており、これより南は大西洋に、北はニジェール川水系に属する。北部はほとんどがサバンナと半乾燥の高地である。国土北端にはニジェール川が流れており、ニジェールとの国境をなしている。また国土北端には世界遺産であるW・アルリ・パンジャリ自然公園群が存在し、広大な自然保護区となっている。

ベナンの気候は、南部は高温多湿であり、一年に二度の雨期(4〜7月と9〜11月)が存在する。北上するに従って雨量が減少していき、北部では雨期は年に一度となる[16]。ただし全般的に降水量は多く、北端の一部を除いて年間降水量は1000mmを超える[17]。南部および中部はサバナ気候(Aw)に属し、北部の一部分のみがステップ気候(BS)に属する。

地方行政区分[ソースを編集]

ベナンの県

ベナンは12の県に分けられている。

  1. アリボリ県カンディ
  2. アタコラ県ナティティングー
  3. アトランティック県ウィダー
  4. ボルグー県パラクー
  5. コリネス県サバルー
  6. ドンガ県ジューグー
  7. クッフォ県アプラウエ
  8. リトラル県コトヌー
  9. モノ県ロコッサ
  10. ウェメ県ポルトノボ
  11. プラトー県サケテ
  12. ズー県アボメー

主要都市[ソースを編集]

地形図

憲法上の首都は南部海岸に位置するポルトノボであるが、多くの政府機関はポルトノボの西にある最大都市コトヌーに置かれており、ここが事実上の首都となっている。コトヌーにはベナン最大の港湾が存在し、ベナンの貿易の大部分を担っているほか、鉄道および道路を利用して内陸国であるニジェールの貿易においても大きな役割を果たしている。南部海岸の主要都市としては、ほかにウィダーがある。北部では鉄道の終点でニジェールとの貿易ルートの中継点となっているパラクーやジューグーが主要都市となっている。

経済[ソースを編集]

最大の都市コトヌー

ベナンの経済は低開発であり続け、国民の大半が従事する農業に依存している。北中部における綿花や、南端部におけるパーム油用のアブラヤシなどの輸出用農業生産のほか、自給作物としては国土全域でトウモロコシが栽培され、北部ではヤムイモソルガムトウジンビエ、南部ではキャッサバなどが栽培される[17]。主要輸出品は綿花であり、2016年度のデータでは綿花輸出は総輸出の43%を占めている[16]。通貨はユーロと連動するCFAフランである。

世界屈指の原油埋蔵量を誇るギニア湾に面しているが、油田の開発は停滞している。1980年代に小規模な海底油田が開発されたものの、採掘の不調により委託を受ける鉱山会社は数度変更され[18][19]、産出は中止された。2013年時点では、ベナンでは原油は産出されていない[20]。石油製品の国内消費量の大部分は、隣国のナイジェリアに頼っている[21]。ベナン経済のナイジェリアに対する依存度は高く、同国の経済状況や外交政策はベナン経済に大きな影響を与えている[22]

ベナン経済における貿易の割合は高く、中でもナイジェリアとニジェール向けの貿易は重要である。いったんベナンへ輸入されたものが周辺諸国へ再輸出されることも多く、ナイジェリアとの間では正規の貿易のほか密輸も盛んに行なわれている[21]

ベナンはOHADAの一員である[23]

交通[ソースを編集]

コトヌー湾にはベナン唯一の海港と、国際空港であるカジェフォウン空港が存在する。コトヌー港の港湾収入はベナン経済にとって重要である[16]。現在新港がコトヌーとポルト=ノヴォの間に建設されている。ベナンは2車線のアスファルトで舗装された道路で隣国のトーゴ、ブルキナファソ、ニジェール、ナイジェリアと結ばれている。

ベナンは植民地時代に建設された鉄道路線を維持しており、独立直前の1959年には北のニジェール政府との共同出資でベナン・ニジェール鉄道輸送共同体が設立された。その後、2015年にはベナン鉄道へと改組された[24]。この鉄道は主要貿易港であるコトヌーと北部の玄関口であるパラクーの間を結んでいる。ベナンにおける鉄道輸送は国内輸送よりもニジェール向けの国際輸送の割合が高い[24]ことに特色があり、終点のパラクーからはトラック便によってベナンの北の国境であるマランヴィルへと運ばれ、ニジェール川を越えてニジェールの南の国境であるガヤからニジェール国内へと運ばれる。このルートはニジェールの主な輸送ルートとなっており、ベナン経済にも重要な役割を果たしている。

国民[ソースを編集]

1961年から2003年までのベナンの人口増加グラフ

民族[ソースを編集]

ベナンにはおよそ42の民族が居住し、特に中南部のフォン人(39%、以下すべて2002年データ)、南部のアジャ人英語版(15%)、南部のヨルバ人(12%)、北部のバリバ人英語版(9%)などが大多数を占め、他にプール人ソンバ人英語版がいる[16]

言語[ソースを編集]

言語は、フランス語公用語であり、その他にフォン語ヨルバ語などそれぞれの民族の言葉が話されている[16]

宗教[ソースを編集]

ベナンのヴォドゥンの教会

2002年センサスによれば、ベナンの人口の42.8%がキリスト教徒(27.1%はカトリック、5%はen:Celestial Church of Christ、3.2%はメソジスト、7.5%はその他のキリスト教)、24.4%はムスリム、17.3%はヴォドゥン、6%は地域に伝わる伝統的な信仰英語版、1.9%はその他の宗教、そして6.5%が特定の信仰に加盟していないことを主張している[25]

キリスト教はベナン中部から南部とアタコラ県のオタンマリ郡にかけて信仰されている。しかしながら、ヴォドゥンとオリシャ英語版は信仰され続け、ヴォドゥンとオリシャのパンテオンがキリスト教の中に組み込まれてさえもいる。

イスラーム教は主にソンガイ帝国ハウサ人の商人によって現在のベナンに相当する地域にもたらされた。現在ではアリボリ県、ボルグー県、ドンガ県などで、ヨルバ人の中で同等に信仰されている(彼等はまたキリスト教を信仰する)。

土着信仰には、アタコラ県アニミズム信仰、ヨルバ人オリシャ英語版信仰やシャンゴ信仰、フォン人のヴォドゥン信仰、その他の宗教が存在している。

ベニン湾に面するウィダーの街はベナンのヴォドゥン信仰の中心となっている。アメリカ大陸で信仰されている黒人宗教として知られているヴードゥー教ダホメ王国のフォン人の信仰が発祥であるとされ[26]、それが奴隷貿易の広がりやハイチ革命後のハイチ人マルーン)の移動とともに西インド諸島ハイチキューバブラジル北アメリカへと広がったと言われている。社会主義政権時代にはヴォドゥン信仰は封建遺制であるとして厳しい統制下に置かれていたが、民主化後ベナン政府は文化復興の一環としてヴォドゥン信仰への規制を撤廃し、1992年には当時のニセフォール・ソグロ大統領とベナン政府によってウィダー92というヴードゥー芸術・文化祭が開催された[27]。1997年には政府によって毎年1月10日がヴォドゥン祭りの日に制定され、以降この日は国を挙げてのヴォドゥン休日となっている[28]

教育[ソースを編集]

ベナンの小学校

教育制度は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学3年であり、法制上義務教育となっているのは初等教育にあたる小学校6年間のみである[29]。近年公立学校の授業料が無料化されたことから、就学率は上昇に転じているものの、未だ子供は重要な労働力であると共に、学校自体が無い地域も多い為、高度な義務教育は達成されていない。教育言語はフランス語で行われる[29]。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は34.7%(男性47.9%、女性23.3%)である[30]

主な高等教育機関としては、国立アボメ・カラビ大学国立パラク大学が挙げられる。

日本との関わりでは、ビートたけしの元付き人・タレントで、2012年にベナン駐日特命全権大使に就任したゾマホン・ルフィンにより、たけし小学校やアフリカではまだ珍しい日本語学校であるたけし日本語学校が設立されている(2003年9月)。たけし日本語学校は、2003年に最初の卒業生ローソン・レオポルトを輩出したのを皮切りに、現在に至るまで多くの卒業生・日本留学生を輩出している。

2012年時点の在日ベナン人の多くは、たけし日本語学校の卒業生である。たけし日本語学校では、平仮名片仮名、漢字、書道などが教授されており、初級で日本語能力試験N4、中級で日本語能力試験N2合格を目標として授業が行われている。しかしベナンはもとよりアフリカで最初の日本語教育の専門学校であるため、運営は難航しており、教室などの施設が受講希望者に対して圧倒的に不足していて数千人の受講希望者が待機する状態となっている。カリキュラムも編成途上であり、上級コースは未だ開設されていない。

2010年以降、たけしの協力要請を快諾した田中義剛により、田中が経営する北海道河西郡花畑牧場においてベナン人を農業研修生として受け入れている。

保健[ソースを編集]

治安[ソースを編集]

ベナンは西アフリカでは比較的治安が良好と言われているが、その一方で銃器麻薬密輸が多く、それらは容易に入手することが出来るため、従来から銃や刃物といった凶器を用いた殺人強盗などの凶悪犯罪が発生している現状がある。

家屋が密集しているスラム街などでは、薬物事犯が発生しており、ゾンゴ(Zongo)地区ならび隣接するジョンケ(Jonquet)地区においては、売春や麻薬密売が日常的に行われているといわれていて、犯罪に巻き込まれるリスクが高いために現地へは近付かないように警戒が鳴らされている。

また、コトヌ市等の都市部では、現地住民だけでなく日本人を含む外国人が金銭目当ての犯罪(窃盗恐喝詐欺など)に巻き込まれる事件が発生している[31]

ベナンの人権英語版状況は、サハラ以南のアフリカ地域において一般的に平均を上回っていると考えられている。

マスコミ[ソースを編集]

以前は政府によって管理されていたが、1990年代に民主主義が導入されて以降、その管理が緩んでいる面が覗える。

電気通信[ソースを編集]

携帯電話サービスは全土を通して様々な業者により、利用可能である。ADSL接続は一部地域で利用可能である。ベナンは1998年から衛星接続によって、2001年から単線の海底ケーブルSAT-3/WASC」によってインターネットと接続しており、データの値段は非常に高額である。代替として2011年のAfrica Coast to Europeの開通が予期されている。

文化[ソースを編集]

コトヌーコンベンションセンター

食文化[ソースを編集]

文学[ソースを編集]

ベナンの文学はフランス語が支配的な言語になる以前から強力な口承文学を持っていた[32]

1929年にフェリクス・クショーロはベナン初の小説『奴隷』(L'Esclave)をフランス語で著した。

音楽[ソースを編集]

ベナンはアフリカ音楽のシーンの中で重要な役割を果たしており、全大陸を通して最も大きなスターの一人であるアンジェリーク・キジョーを生んだ土地である。独立後、国は力強く、革新的な音楽シーンの故郷であり、土着のフォーク音楽がガーナハイライフやフランスのキャバレアメリカ合衆国ロックンロールファンクソウル、そしてコンゴ民主共和国アフリカン・ルンバと結びついて育った。イグナシオ・ブラシオ・オショは恐らくペドロ・グノーナス・イ・スス・パンチョスレ・ヴォルカン・ド・ラ・キャピタルピコビー・バンド・ダボメイと並んでこの時期における最も影響力を持ったミュージシャンである。ペドロはフェソ・ジェヴの歌をプロデュースし[33]、曲はヒットし1973年のen:1973 All-Africa Gamesで多くのバンドによって演奏された。

映画[ソースを編集]

世界遺産[ソースを編集]

ベナン国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が1件(アボメイの王宮群)、ニジェールおよびブルキナファソとの共同登録である自然遺産が1件(W・アルリ・パンジャリ自然公園群)存在する。1985年にアボメイ王宮群が登録されて以降、ベナンの世界遺産は長らく1件のみであったが、ニジェールのみの登録となっていたW国立公園が、隣接するベナン・ブルキナファソ両国を含む形で2017年に拡大された[34]

祝祭日[ソースを編集]

日付 日本語表記 フランス語表記 備考
1月1日 元旦 Jour de l´an  
1月10日 ヴォードゥンの祭り Fête du Vodoun  
1月 タバスキ(犠牲祭) Tabaski 移動祝日
3月〜4月 イースター Pâques 移動祝日
5月1日 メーデー Fête du travail  
5月5日 昇天祝祭 Ascension  
5月16日 聖霊降臨 Pentecôte  
不定期 モハメッド生誕祭 Maouloud  
8月1日 建国記念日 Fête nationale  
8月15日 聖母被昇天祭 Assomption  
11月1日 諸聖人の日 Toussaint  
9月 ラマダーン Ramadan 移動祝日
12月25日 クリスマス Noël  

スポーツ[ソースを編集]

ベナン国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1969年にサッカーリーグのベナン・プレミアリーグ英語版が創設され、ASドラゴンズFCデ・ロエメ英語版がリーグ最多12度の優勝を達成している。ベナン人の著名なサッカー選手としては、イングランドプレミアリーグでも活躍したステファン・セセニョンが挙げられる。なお、トッテナム所属のライアン・セセニョンの従兄弟としても知られる[35]

ベナンサッカー連盟英語版によって構成されるサッカーベナン代表は、これまでFIFAワールドカップへの出場歴はない。アフリカネイションズカップには2004年大会で初出場を果たし、4度目の参加となった2019年大会では初めてグループリーグを突破し、ベスト8の成績を収め国内では大変な盛り上がりをみせた。

著名な出身者[ソースを編集]

政治家
芸能・音楽
スポーツ選手

脚注[ソースを編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b UNdata”. 国際連合. 2021年10月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月18日閲覧([1]
  3. ^ a b c d e f ベナン共和国(Republic of Benin)基礎データ 日本国外務省(2021年12月4日閲覧)
  4. ^ a b 仏の略奪美術品 ベナンに返却へ/植民地支配の「戦利品」像・玉座など26点朝日新聞』朝刊2021年10月29日(国際面)2021年12月4日閲覧
  5. ^ a b 岩田拓夫「対照的な民主化の歩み ベナンとトーゴ」p.783 『朝倉世界地理講座 アフリカⅡ』(池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月)所収
  6. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平『世界地理大百科事典2 アフリカ』(朝倉書店、1998年 ISBN 4254166621)p.484
  7. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平『世界地理大百科事典2 アフリカ』(朝倉書店、1998年 ISBN 4254166621)pp.484-485
  8. ^ 岩田拓夫「対照的な民主化の歩み ベナンとトーゴ」p.786 『朝倉世界地理講座 アフリカⅡ』(池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月)所収
  9. ^ 岩田拓夫「対照的な民主化の歩み ベナンとトーゴ」p.792 『朝倉世界地理講座 アフリカⅡ』(池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月)所収
  10. ^ 岩田拓夫「対照的な民主化の歩み ベナンとトーゴ」p.790 『朝倉世界地理講座 アフリカⅡ』(池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月)所収
  11. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平『世界地理大百科事典2 アフリカ』(朝倉書店、1998年 ISBN 4254166621)p.487
  12. ^ ベラン世界地理体系9『西部・中部アフリカ』(田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷)pp.162-163
  13. ^ ベラン世界地理体系9『西部・中部アフリカ』(田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷)p.162
  14. ^ 「ナイジェリアの国境封鎖、ベナン経済に影響」JETROビジネス短信(2019年10月10日)2019年12月18日閲覧
  15. ^ 酒井啓亘「国際裁判による領域紛争の解決 最近の国際司法裁判所の判例の動向」p.13『国際問題』No264(2013年9月)2019年12月18日閲覧
  16. ^ a b c d e 『データブック・オブ・ザ・ワールド2018年版 世界各国要覧と最新統計』(二宮書店 平成30年1月10日発行)p.303
  17. ^ a b 国際協力事業団ベナン共和国平成11年度食糧増産援助調査報告書』p.3(平成11年3月)2019年12月17日閲覧
  18. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平『世界地理大百科事典2 アフリカ』(朝倉書店、1998年 ISBN 4254166621)pp.489
  19. ^ ベラン世界地理体系9『西部・中部アフリカ』(田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷)p.163
  20. ^ JPECレポート2015年度第5回『西アフリカ主要国の石油と天然ガス動向』石油エネルギー技術センター(平成27年5月28日)2019年12月18日閲覧
  21. ^ a b JETRO地域・分析レポート『西アフリカ物流実走調査(2)アフリカの非公式貿易を象徴するベナン経由の取引』2018年12月26日(2019年12月18日閲覧)
  22. ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平『世界地理大百科事典2 アフリカ』(朝倉書店、1998年 ISBN 4254166621)p.487
  23. ^ OHADA.com: The business law portal in Africa, http://www.ohada.com/index.php 2009年3月22日閲覧。 
  24. ^ a b 『世界の鉄道』(一般社団法人海外鉄道技術協力協会著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行)p.337
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  26. ^ ジョアン・マノエル・リマ・ミラ「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子(訳)『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子(編)新評論 1995年10月
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参考文献[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

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