新愛知
ナビゲーションに移動
検索に移動
新愛知 | |
---|---|
種類 | 日刊紙 |
サイズ | ブランケット判 |
| |
事業者 | 株式会社新愛知新聞社 |
本社 | 愛知県名古屋市中区 |
創刊 | 1886年3月 |
廃刊 | 1942年8月31日 |
前身 | 無題号 |
言語 | 日本語 |
特記事項: 1942年9月1日、新愛知と名古屋新聞が新聞統制により合併、『中部日本新聞』(現在の中日新聞)を新たに創刊。 |
新愛知(しんあいち)とは、1888年(明治21年)創刊の日刊新聞である。文字通り現在の愛知県名古屋市を拠点に発行していた。現在の中日新聞の前身の一つ[1]。
歴史[編集]
1886年(明治19年)に無題号として創刊、翌年には日刊紙の愛知絵入新聞となるも官憲の弾圧で廃刊に追い込まれる[2]。その後無題号・愛知絵入新聞に関わっていた大島宇吉によって1888年(明治21年)7月5日に新愛知として復刊し[2]、1914年(大正3年)から1924年(大正13年)までは、桐生悠々を主筆として迎えた[3]。
昭和に入るころは東京・大阪の中央紙に次ぐ地方最有力紙にまで成長し、関東大震災後に経営不振に陥っていた東京の名門紙である國民新聞社(後の東京新聞社)を傘下に収めた[2]。
1936年(昭和11年)には、当時の同紙主筆の田中斉によりプロ野球チーム名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)を結成し、正力松太郎(大日本東京野球倶楽部創設者)による日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)の設立構想に対抗して、独自リーグ大日本野球連盟の設立を図って、子会社の國民新聞社により、東京都で大東京軍を結成した。その後、両球団は日本職業野球連盟に合流した。
新聞販売では、同じく名古屋を拠点とする名古屋新聞との激しい競争を繰り広げたが、戦時下による新聞統制に伴って1942年(昭和17年)に両社が合併し、中部日本新聞社が設立された[1]。
なお大島家は名古屋新聞の小山家とともに中部日本新聞(→中日新聞)の経営を引き続き手がけている。
略歴[編集]
- 1886年(明治19年)3月 - 前身となる無題号創刊。
- 1888年(明治21年)7月5日 - 大島宇吉によって新愛知として復刊。
- 1912年(明治45年) - 名古屋市中区本町二丁目に本社新社屋落成[4]。2月11日、落成式[4]。
- 1933年(昭和8年)5月1日 - 東京の國民新聞の経営権を取得(國民新聞は昭和17年に都新聞と合併し「東京新聞」になる)。
- 1936年(昭和11年)1月15日 - 名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)を結成。
- 1942年(昭和17年)9月1日 - 名古屋新聞社と合併し、株式会社中部日本新聞社設立。日刊紙「中部日本新聞」創刊。
地方付録[編集]
地方版と異なり、現地支局が独自に編集し、広告を集めて現地で印刷発行を行うもので、一種の地方紙である。
- 以上は現在の中日新聞(愛知・岐阜・三重県各地の新聞は名古屋の本部、駿遠は東海本社)の源流でもある。
脚注[編集]
- ^ a b “社史・沿革:中日新聞Web”. 中日新聞. 2021年8月19日閲覧。
- ^ a b c 春原昭彦. “中京新聞界の祖―「新愛知」を最有力地方紙に 大島宇吉(おおしま・うきち)”. 日本新聞博物館. 2021年8月19日閲覧。
- ^ 春原昭彦. “戦前、軍部批判を続けた抵抗の新聞人 桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)”. 日本新聞博物館. 2021年8月21日閲覧。
- ^ a b 名古屋市会事務局 1963, p. 195.
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、新愛知に関するカテゴリがあります。